こんな流れで鍼灸師に。の5
茨城時代:震災から得たもの
2011年3月11日、東日本大震災。
自宅では祖父が庭に出ており、僕は茶を淹れていた。
地響きから激しい縦揺れ。体が浮き上がるかのようだった。
外を見ると祖父が庭にうつ伏せになっていた。近くには落ちてくるようなものもない。
「そのまま、そのまま!」
と声をかけ、僕自身は引き続く横揺れの中、食器棚と冷蔵庫を押さえていた。
本震が収まり、実家の店へと向かう。幸い祖母、母、手伝っていた妹ともけがなくいてくれた。
住まいの方に回ると、割れて水のなくなった水槽の中で飼っていた金魚が口をパクパクさせていた。生きていてくれたことがうれしい。カルキ抜き、という言葉が脳裏をよぎったがこの緊急時だ。洗面器に水道水を張り、大急ぎで金魚を移した。
前日からのリフォーム工事のため、壁を抜いてあった実家で夜を過ごすことはできない。
せまいながらも無事だった我が家に移る。
父は入院先の病院で安全に過ごせるものの、自宅の状態が整わないために退院を遅らせることになった。
2人目の子供の出産のため、長女を連れて里帰りしていた妻とは相談のうえ、こちらへ戻ってくるのを延期することにした。
輪番停電。
交差点の消えたままの信号機。
普段人通りも少ない道に現れた渋滞は、1キロ先のガソリンスタンドから続いていた。
仕入れに行った市場からは、水、茶、菓子パン、カップラーメンなどの食材が消えていった。あれほど空っぽの棚が目立つ卸売市場を見たのは初めてだ。
東京の企業に勤めていた友人は、徹夜で歩いて帰ってきたと言っていた。
地震による住宅の被害もさることながら、福島第二原発事故と放射性物質拡散に関する情報が徐々にわかってきたことで、引っ越していく人たちも出てきた。
ここに残る人たちも不安がまったくないわけではない。あのときの、どちらを選んでもすっきりしない空気は忘れられない。
物流の仕事をしている弟は、震災からしばらくの間、福島県への物資を自衛隊が待機しているところまで運ぶ役についていた。早朝、深夜とトラックを運転し、帰宅して少し寝たのちにまた出ていく。そんな姿を見ながら、災害からの復興は人の手でおこなわれるのだということを思った。
各地の復興に建設業者や資材が流れる中、幸運にも実家のリフォームが完了。父が退院してきた。退院して間もないころは義足を使いこなすことが難しいようで、何かと家族の介助が必要だった。甲子園にも出場した父だった。動かない体。誰よりも本人が歯がゆかっただろうと思う。
妻の実家は日本海側の他県。
病院勤務を辞めて時間の都合がつけやすくなったように思えるが、そうそう訪ねることはできなかった。娘は2歳。たまに訪れると、初めのうちは怖がられてしまう。数日を過ごして帰るころには寂しいと思ってくれるのだろう、泣いていた。
冬に生まれた息子が2度目の春を迎えたころに、妻と子供たちが帰ってきた。言葉の覚えめざましい娘は、すっかり妻の実家の方言を話すようになっていた。それだけの時間を、一緒に過ごせなかった。
家族が集まり、実家が改修され、以前の生活が戻ってきたように見えたが、震災以前とはどこか違う感じは長い間消えなかった。それでも生活の安定を求めて、再び求職活動に入ることを決めた。
この期間に感じた、自分だけでなく周囲の人も含めた、言葉にはしがたいぐるぐると回る思い。
「人間最後に頼れるのはひとり自分の体だけだなあ」
仕事柄からだろうか、そんな思いが一層強くなった気がする。
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